日本の<言葉・知識>についてby 高杉公望)

 

 あれこれ表皮的な手触りから考えていくとすれば、日本的言語の特徴というのは、どこにあるのか。たとえば、倭語の層には国つ罪の層と天つ罪の層その他があり、漢語の層には律令制漢語の層と仏典漢語の層があり、欧米語の層には英・仏・独・米……の諸層がある。しかし、さまざまな言語や文化が混淆しているというのは、どこの国でも同じであろう。むしろ、諸外国のほうが民族移動と衝突と混淆がより密接になされてきたであろう。

 だとすれば、日本列島の地理的特性からきたものは、むしろ、先進的な言語や文化をまさに言語や文化としてよりどりみどりのものとして、ただ選択すればよかったというところにあるのではないだろうか。たとえば朝鮮人やベトナム人のように中国に侵略され、中国風の姓名に創氏改名させられたり、という経験をともないながら、外来文化を押し付けられたというのとは違うかたちでの文化、言語の入り方が、日本の特徴だということになるのであろうか。民衆生活の深部まで、いったんは強制的に外来文化が押し入ってきた。そのあとに、朝鮮やベトナムのような国々の国家権力は、ある時期に民族独立の英雄時代を創始者としてもつことになった。そこには、指導権力者と民衆との民族的な共同利害が国家権力を構成する根拠となる契機があったということになる。それは、諸民族がせめぎあうユーラシア大陸の東端から西端である西欧諸国まで共有された性格といえよう。

 姓名にまで外来文化・言語が刻印されている点は、征服者を押し返して独立をかち取った国家権力指導部と民衆の間に共有されたものとしてある。この点は、欧米人の名前の多くが聖書やギリシア人、ローマ人に由来することにも当てはまろう。そこでは、支配者と民衆の言語の乖離の度合いは、ある場合は少ないものとなり、ある場合には異族支配として明確に違うものとなる、というように、比較的わかりやすい現れ方をする場合がある。

 日本列島では、外圧の風評のもとで情緒的にのみ外来の先進文化、言語を受け入れてきた。率先して受け入れたものこそ、天皇家、蘇我氏、藤原氏いらいつねにエリート街道を独占してきた。公卿は漢語で文書を書き、民衆は話し言葉の倭語しか知らない。徳川時代までは一般大衆に教育機会もなかったらしいから、この構図はたいへん長く続いていたことになる。
 明治維新は支配階級内部ではドラスチックな再編成であったが、また義務教育、徴兵制によって民衆に書き言葉をもたらした。こうして近々百年あまり前にはじめて本格的に書き言葉の世界に登場することとなった日本の民衆にとって、明治国家は律令制から武家政治の時代をへて欧化政策にいたる多言語の複雑に累層した手も足も出ない重量物として姿を現したはずである。

 逆に、そのことは新帰朝の言語・文化の洗礼を受けた知識人・官僚たちにとっては、日本の民衆の絶望的な後進性とうつったはずである。民衆と支配権力者は、言語学的にはきわめて同質的な言語をもっていたとしても、同じ言葉で意思疎通することが困難な状況がまだ明治時代にはあった。そのために、国会はただ形骸化させることだけに設置者たちの腐心はあった。
 大衆の不満は、結局のところ土一揆や百姓一揆と同じように、近代国家の言語とは乖離した言語と直接行動的な運動となる。それに商業雑誌などで「言葉」を与えるのは、元官僚の反政府政治家や官僚にならなかった反政府知識人であり、彼らの所有する言葉は、漢語および英・米・独・仏語のいずれかであった。
 つまり大日本帝国憲法の官僚に対して、ロック、ルソー、クロポトキン、マルクス・レーニン、等々を奉ずる知識人か、あるいは国家主義を奉ずる反政府的な半知識人かであった。

 民衆生活の現実から湧き上がってきた大衆運動は、つねにそれらの外来言語・思想によって解釈され、指導され、空転させられてきたのだ。だが、もちろん、知識人の代行言語を離れれば、そこには土一揆・百姓一揆への回帰しかないという矛盾がある。高畠素之、社会大衆党や北一輝、青年将校らは天皇という言葉を結合させようとしたといえる。しかし、個人としての天皇は和漢洋学をおさめた支配エリート階級の頂点にあるものとして、決して土一揆百姓一揆に直結することなど望むことはない。

 敗戦後、戦禍と生活苦によって未曾有の大衆運動が高揚したが、それはつねに共産党の誤った指導によって混乱させられ潰された。60年安保と全共闘はブントの戦術左翼主義によって大衆運動の高揚をみたが、ブントそのものは教条的な共産主義にとらわれているかぎり、ただ大衆運動のエスカレートを暴力革命に結びつけるという発想しかもっていなかった。したがって、大衆運動を煽るだけ煽って、安保条約も大学制度も結局なにもかわらないまま「壮大なるゼロ」に終わることを繰り返すだけであり、ブント自体も繰り返し解体するというのが、ブント主義の限界であった。

 その後も、日本では言葉は新しい外来の品目をただ無意味に増やしていくだけである。構造主義、記号論、ポストモダン、最近はネグリ/ハートの「帝国」。。。他方での新自由主義、新保守主義。それらは、支配共同体のなかの官僚と、「反政府」的知識人の出世競争のための道具として機能するので、それら自体が、部分社会的な現実として強固な基盤を持つことになる。それぞれの部分社会では、早口で滑らかな語り口でそれらの言語を操れば、それだけで出世がかなうのだからだ。意味内容などは言っている方も聞いて「審査」する方もわかっているのか、わかっていないのか、それは誰にも「審査」できない構造となっている。

 しかし、それらはただの翻訳語の体系でしかないから、それだけではただの辞書、あるいは博物館の陳列品にすぎず、日本社会の総体的な現実とは滅多なことでは噛み合わない。博物館での博学競争で出世したものが、一方では政策決定機構の権力者となり、他方では大学・出版界という部分社会の権力者となる。それらは、支配共同体という閉じられた社会のなかの閉じられた部分社会群を形成している。そこには民衆が民衆自身の言葉でアクセスすることは無意識のうちに排除されている。
 誤解してはならないのは、それは官僚や知識人が望んでのことではないということだ。むしろ彼らは、自分らの言葉が通じない民衆の「民度」の低さを善意をもって嘆くのみである。それが、日本型権力の秘密の一つである。

 したがって、閉鎖的な支配共同体は、それが体制的な官僚の世界であろうと、「反政府的」な知識人の世界であろうと、日本社会の現実的な課題とフィードバックする機能を欠いている。それゆえ、かれらの体制的な政策も反政府的な政策批判も、あたかもシャーマンが祭祀によって雨を降らせようとするのと効果においてはいささかも変わらないことになるほかはない。

 だから、政府などあってもなくてもかわりがない好景気の時にだけ順調で、いざ長期の不況を余儀なくされる構造転換期にはいると、ほんとうに政府も「反政府」的知識人、野党もシャーマン程度の役にも立たなくなってしまう。
 外交や安全保障についても、日英同盟や日独伊三国同盟や日米安保条約にたいして、まるで幼児が母親にすがるかのようなすがり方しかできず、それで何事もない間だけ何事もなく過ごせるということになっている。(2003/03/19

 

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